12月6日から9日「民主党日中国交正常化を記念しての交流機構・大長城計画訪中団」で北京訪問
このたび日中国交正常化35周年を記念して、中国共産党と日本民主党の「定期交流協議機構」の第二回会議と記念行事に参加し、中国北京を訪問して参りました。私は、両国の人的、文化的交流について議論を深める「文化分科会」の司会進行という大役をおおせつかりました。
日中関係は久しく「政冷経熱」と言われる時期が続いてきましたが、ことしは両国にとって意義深い節目の年を迎え、さまざまな困難を乗り越えながらも、未来につながる友好の橋を架けるために互いに努力することを誓い合いました。
文化会での大きなテーマにもなりました、来年の北京オリンピックの成功に賭ける中国の意気込みと取り組みには圧倒されました。「ひとつの世界、ひとつの夢」というスローガンが街中に掲げられ、競技場や選手村、ホテル、空港、高速道路など建設ラッシュに沸いています。その一方で、マイカー通勤が増えたことによる渋滞や排気ガスの問題、拡大し続ける経済格差、中国らしい情緒あふれる町並みやコミュニティーが壊されていることなどが気になりました。
人命の安全と健康に関わる分野をはじめ、環境、エネルギー、感染症、食品汚染、北朝鮮問題など日中両国が共同して取り組むべき政治的課題が多く山積していることを実感し、今後もさまざまなステージで胸襟を開いた議論を重ねていきたいと思います。
北京飯店の窓から朝の通勤ラッシュ。とにかく車が増えました。
人民大会堂にて お隣は三谷光男衆議院議員と行田邦子参議院議員。
レセプションでは喜納昌吉参議院議員が中国でもおなじみの「花」を熱唱。
日中両国の専門家によるディスカッションは休憩も取らず熱が入りました。
人民解放軍を視察。
9月1日~8日までイタリアを訪問。写真を更新しました。
日本を出発して丸一日かかってシエナ近郊のロッジに到着。(初日の9月1日の夜)
私たちが宿泊した農家経営のロッジの窓から広大な土地にオリーブの樹が植えられています。
農家の方から実際にアグリツーリズムの成功例をお聞きしました。
広大なブドウ畑から香り豊かなワインが生まれます。
夕暮れの時間。時間がゆっくりと流れていきます。
昔の城跡で結婚式を挙げる素敵なカップルに出会いました。
ペルージャ市内にて
アッシジのサンフランチェスコ教会
タイラ神父様と出会いました。
重厚で古い町並みが数百年、保存されています。
ヴァチカンでは教皇のお言葉を求めて多くのカトリック信者が集まっていました。
これ、人形じゃなくて本物の人なんです!。コインを入れると動きます。
気分はオードリー・ヘップバーン?
ローマでは「緑の党」を訪ねて意見交換もしました。
第114回IPU国際会議に参加して.1「はじめに」
はじめに
私は、5月5日から14日までの10日間、アフリカケニア共和国で行われたIPU国際会議に日本の国会を代表して衆議院5人、参議院3人の議員と共に参加して参りました。IPUとは列国議会同盟のことで主権国家の議会の代表者が結集する国際機関です。
事務局はジュネーブに置かれ1889年創設以来毎年2回開催されている歴史と権威ある会議です。このような大きな国際会議に参加し発言する機会を当選2期の立場で頂いたことを大変ありがたく光栄に思います。
私にとっては初めてのアフリカ訪問でしたが、心配した長旅も(ロンドンまで12時間、さらにケニア首都ナイロビまで8時間)伝染病などの体調不良もなく全ての日程を精力的に活動することができました。
成田を出発して約12時間(ロンドン・ヒースロー空港)
会議場の前で。一緒に参加した丸谷佳織衆議院議員、坂本由紀子参議院議員と
IPU国際会議の会場となったケニヤッタ国際会議センター
第114回IPU国際会議に参加して.2「日本の代表としてスピーチ」
日本の代表としてスピーチ
会議は5月7日から始まり、世界143ヶ国の国会議員が「平和、安全保障」「環境」「女性の人権問題」「アフリカの開発」「エイズと子供」など様々なテーマについて討論を行いました。
まず、ノーベル平和賞受賞者でケニアの環境副大臣でもあるワンガリ・マータイ女史の講演で「もったいない」キャンペーンを展開し、日本古来のモノを大切にしようという精神が世界に広められていることを知り大変感激しました。私は「天然資源の管理に対する女性の貢献」というテーマで発言し、「女性を重労働から解放し等しく教育の機会、就労の機会を得るよう、また意思決定の場により多くの女性が参加できるようあらゆる措置を取るべきだ」と発言しました。
日本にいると「水不足」という感覚が理解できませんが、世界は大変な水不足が起こっています。アフリカでは最大の問題といってよいでしょう。葉っぱについたわずかな水滴をバケツに集める涙ぐましい努力は私たち日本人にとって想像もできないことです。水くみ、水の管理は女性の仕事であり、生活の場と水場を一日も何往復し数十キロの道のりを何時間も歩くことが日課になっています。
そのため、小さな女児も学校に行く機会がなく、女性には教育や就労の機会が与えられません。私は、「日本はODAによる給水施設の建設や技術者の養成に取組んでおり、その結果、村の女性が水くみ労働から解放され村の識字教室に通えるようになったり、流産や皮膚病が激減した」ことなど具体的な事例を挙げました。
また、「女性の人権をめぐる問題」について発言し、女性や少女に対する暴力の根絶に向けて各国がより一層強力に取組むべきと訴えました。様々な慣習、伝統、宗教的な理由によるものもありますが、女性器の切除、性的搾取、乳児殺し、強制婚、人身売買、レイプ、拷問はあとを絶ちません。国際的に人身売買されている女性は年間200万人にも上り、そのほとんどが貧困家庭出身者、政情不安にさらされている地域の女性たちです。
「女性に対するあらゆる差別と人権侵害をなくし、女性の経済的な自立を促していくために各国議会が協力して具体的な立法などに取組む」ことを誓い合いました。かく言う日本でも家庭内暴力や虐待、DV、売春、買春など女性の人権を踏みにじる事件が増えていることに対し、もっと真剣に取組んでいかなければなりません。

日本を代表して会議で女性の人権問題などについて発言
モンゴル代表団
フィジーの団長と昼食会
日本訪問団の団長、自民党の谷津義男先生(右)。左は民主党の鈴木克昌衆議院議員
ナイロビの日本料理店で食べた「天ぷら」の味は忘れられません。
韓国のユ・ジュゴン(柳在鍵)議員はIPU会議のベテランでした。
各国の議員と交流を深めました。
第114回IPU国際会議に参加して.3「ナイロビ」「奪われる命」「スラムを訪ねて」
ナイロビ
会議が開催されたケニアの首都ナイロビは、東アフリカの中心都市として発展しアフリカ諸国と欧米、アジアを結ぶ玄関口です。標高1700メートルにありちょうど日本の軽井沢のような気温。この時期は秋に向かう雨期にあたり朝晩は肌寒いくらいでした。背が高く痩せた人が多く、富の象徴である太った人はほとんど見かけません。(アフリカでは太った女性がモテるそうです!)
近年、治安が悪くなり外国人だけでなく現地の人も夜は自由に町を歩けない状況になっていました。小型銃が日本円で3千円くらいで手軽に入手でき、しかも警察の地位やモチベーションが低いため市民は自分で身を守るしかありません。私たちも勝手にホテルを出てはいけないと注意され大使館の職員やSPの案内のもと行動しました。
日本人で名前が多く知られているのは国連の緒方貞子さん、サッカーの中田選手だそうです。ジャイカなど献身的な人道支援の成果もあり、日本人に対しては総じて好意的で「ジャパニーズ?オッケー!」と親しく声をかけてくれました。「中国人やインド人の態度は横柄で、命令口調で指示するから嫌いだ」と言う人もいました。日本のNGOやボランテイア、JICAの職員が彼らのプライドを傷つけないように一緒に汗を流し、地道な活動を続けてきたことが現地の人々に溶け込んでいることを知り大変嬉しくなりました。
奪われる命
ケニアでは平均寿命が48歳と言われています。なぜこんなに短命なのでしょうか?「癌?」と聞いた私に、「癌は先進国の病です」との答え。まぬけな質問をしたことが恥ずかしくなりました。
水も電気も普及率が低く非常に不衛生な環境の中では伝染病が流行しやすく、また栄養失調などで風邪をこじらせただけなのに死に至ってしまうケースが多いのです。病院に行ける人はごくわずか、多くはお金がないため我慢を重ね重体になってから病院に運ばれるのです。また、平均寿命が低いのにはもう一つ大きな理由がありました。HIV(エイズ)です。スラムなど貧しい地域では平均寿命が30代というところもあると聞き愕然としました。
HIVに対する知識がなく、予防の手だてもなく、またわかっていたとしてもそうせざるを得ないのです。感染しても薬が買えないからまた次から次へと感染し、特に母乳による母子感染は深刻な事態でした。レイプ、人身売買で感染してしまう少女も多くあります。男性が、エイズに感染していない若年の少女と結婚したがるため、13歳くらいで学校をやめて結婚してしまう女の子も多いのです。劣悪な環境のもと多くの命が奪われていくことを本当に悲しく思いました。
スラムを訪ねて
ケニアの人々も教育には熱心です。教育さえあれば貧困から抜け出せる。苦しい家計をやりくりしてもなんとか子供たちに教育をと願う親心は万国共通です。私は、在ケニア大使館の案内でスラム街に入ってみました。スラムに外国人が入って行くのは非常に危険で、襲われて身ぐるみ剥がされることも珍しくないと聞き正直とても怖かったです。
ナイロビの人口約270万人のうち私たちが訪ねたスラムに100万人もの人々が住んでると聞き驚きました。スラムの中は政府の手が届かない自治が存在し、学校や診療所、交番のような建物も見えました。昼間なのに若者の姿を多く見かけました。みんな仕事がないのです。大家族の中で誰か一人でも稼げればみんながその収入にすがって生きているのです。
子供たちの姿も多く見かけました。意外だったのは、子供たちが親しげに私に近寄って来て握手を求めたり、カメラを珍しそうに覗いたり、英語で話しかけてきたことでした。あまりの明るさ、無邪気さに私の方が戸惑ってしまいました。どの子も瞳をきらきら輝かせています。日本の支援で建てられた学校がありましたが、とても粗末な小屋のような所で電気もありませんでした。教育費は無料ですが、制服や教材が買えない家庭の子供は途中でリタイアしてしまうことも多いそうです。
また、高学年の女子は家計を助けるため働きに出たり、若年婚などの理由で学校に来なくなるケースもあります。スラムで生まれた人がスラムを抜け出すことは容易ではありません。スラムの暮らししか知らず一生をスラムの中で終える人々のなんと多いことでしょうか。苦しくとも教育を受けて頑張れば人生はこんなに変わる、成功できるというロールモデルが身近にないことも理由の一つかもしれません。人づくり、人材の育成、教育こそが貧困から抜け出す大きな力です。日本の支援を教育の分野にもっと注ぐことを考えていきたいと思いました。