東ティモールでラモス・ホルダ大統領、ダ・コスタ外務大臣と会談
東ティモール訪問のため午前11時のフライトで成田を出発しました。日本からは直行便がないため、今日はバリ島のデンパサールで一泊です。
日本よりも涼しく、平均気温は一年を通じて27度前後。湿気がないのでとても過ぎしやすいです。観光地として発展しており大勢の日本人の姿を見かけました。バリにおける観光客数は1位がオーストラリア、2位が日本で昨年一年間で約25万人がバリを訪れています。最近では中国人観光客も増え約20万人で3位になっています。また、観光だけでなく様々な国際会議が開催されています。
バリの住民の生業は農業と畜産で、米の年間生産量は約53万トン。稲作の他にはコーヒー、バニラなどが多く栽培されています。また、舞踏、音楽、織物、絵画など芸術に従事する人も多く芸術や美術も大変盛んです。
市内に大変多くのコンビニがあるのには驚きました。感覚から言うと日本よりも多い感じ。あっという間にコンビニ文化が広がったそうです。それにしても、青い海と空が綺麗。心が癒されました。
日本との時差は1時間。17:30にデンパサールに到着しました。
なぜか?砂浜に牛がいました。
ヒンドゥー教はバリの人々の日常生活に欠かせないものであり、祭礼、道徳教育、礼儀の実践に根付いています。
美しく広がるマリンブルーの海に魅せられて毎年多くの日本人観光客がバリを訪れています。

2011年8月10日(水)
朝10時過ぎデンパサールを出発し、午後1時過ぎに東ティモールのディリに到着しました。
ホテルにチェックインしたあと、さっそく大統領府を訪ねラモス・ホルダ大統領と会談しました。大統領は、東ティモール独立革命戦線の創設に関わり、96年にはノーベル平和賞を受賞、訪日暦は8回あります。
東日本大震災発生後、大統領自ら全国民に呼びかけ日本人のために哀悼を捧げて頂いたことや人口100万人の東ティモールにとって大金である100万ドルもの義捐金を寄付して頂いたことに、私から感謝の言葉を述べさせて頂きました。
来年は日本・東ティモール外交樹立10周年という記念の年を迎えます。民主主義、人権といった価値観を共有する国として二国間関係をさらに強化・深化させたいと確認し合いました。
また、大統領から、米国の債務上限引き上げ問題、米国の財政赤字、欧州の金融危機など国際通貨危機に関して問題提起と深刻な危機感が示されました。日本としてこの問題にどう対処しているかを説明し、引き続き日本政府は国際社会と連携しながら責任を果たしていくとお伝えしました。
大統領表敬のあとは、外務省(中国の無償支援で建設)を訪問し、ダ・コスタ外務大臣と1時間会談を行いました。来年、大統領選挙と国民議会選挙が行われ、UNMIT(アンミット:国連東ティモール総合ミッション)の撤収も予定されており、東ティモールにとっては極めて重要な節目の年となるので、選挙が平和裏に実施されるよう求めました。また、わが国は東ティモールが重視するASEANへの加盟を引き続き支持することを表明しました。
外務大臣との会談後は現地プレスのぶら下がり取材。その後、日本大使館を訪問し、厳しい環境の中、日本の国益と東ティモールの和平・安定・発展のために日夜奮闘されている全職員を激励しました。
17時半〜アミーラ・ハク国連事務総長特別代表兼UNMIT代表と1時間会談。ハク代表の右腕として5人の邦人職員が活躍していること、UNMITに対する日本の貢献への謝意、UNMITの出口戦略について説明がありました。
19時〜当地で活躍している国連、NGO、JICAなど邦人のみなさんと懇談。「ここに来て初めて、食べる物があり寝る所がある当たり前の生活がどんなに幸せだったか気づいた」「新しい国づくりに関わる面白さと責任の重さを感じている」「10代で出産する女性が多いが、栄養不足や独特な慣習により命を落とす女性が後を絶たない」いろんな苦労話をお聞きしました。
サラリーマン生活を止めてJICAで働いている男性。マラリアに3回かかった女性も。強い意志で人々の中に飛び込み、現地の生活に溶け込み、人々とともに泣き、笑い、喜びも悲しみも分かち合っています。彼らの活躍は日本にとって大きな誇りだと思いました。
ディリ空港に到着。気温は30℃前後ですが、日射しが強いのでとても暑く感じました。
まる裸で泳ぐ現地の子どもたち。小中学校は義務教育ですが現実には学校に行っていない子も多くいます。
ラモス・ホルダ大統領とは約40分間会談を行いました。
ダ・コスタ外務大臣は非常に紳士的で素敵な方でした。
日本大使館の職員を激励訪問。現地のティモール人職員もよく頑張っています。
アミーラ・ハク女史はバングラディシュ人です。情熱的で、親切で、ユーモアにあふれた女性でした。
日本大使公邸で現地で活躍する日本人と懇談しました。
2011年8月11日(木)
東ティモール2日目。朝9時〜民主的な国政選挙による平和構築計画の署名式典に出席しました。来年の大統領選挙と国民議会選挙を支援するため、日本政府はUNDPを通じて東ティモール選挙管理局に約166万ドルを供与します。
10時〜日本政府が無償案件として支援しているベモス・ディリ浄水場を視察。安全な水にアクセスできないため疾患や病気になる人々が多くまさに命の水です。日本政府は水道技術者の養成にも力を入れています。炎天下のなか日本企業が頑張っておられました。
11時〜NGO「バ・フトゥル」を視察。長い間の紛争により傷ついた子供たちへの平和教育、情操教育、語学、アート研修など様々な活動を通して青少年育成を行っているNGOです。日本は草の根無償資金協力で教室建設を援助しました。
子供たちは「大きな栗の木の下で」を日本語で歌って私たちを歓迎してくれました。中学生の年齢の子供でも小学生にしか見えず、日本の児童に比べると一回りも二回りも細く小さな体型です。でも、その瞳はキラキラ輝いて未来への希望にあふれています。どうか健康に丈夫に成長して、しっかり勉強して将来はこの国のリーダーになってほしいと願いました。
12時半〜14時グスマン首相とピレス財務大臣とワーキングランチ。グスマン首相は、この国の独立革命戦線の司令官としてゲリラ闘争を指揮し、インドネシア当局に逮捕され投獄されるも大衆の心の支柱として絶大な支持を得て首相に就任したカリスマ的人物です。
非常に明るく気さくなお人柄で、私はすぐに意気投合しました。現地の言葉で「マウン・ボート」(頼れる兄貴)と呼ばれており、今後20年の国家戦略開発計画を策定するにあたっては、全国65全ての準県を自ら行脚し、住民との対話集会を一日8〜9時間行ったタフガイです。
「人々のために政治はある、人々が何を望むかをいつも考えている」首相は何度も何度もそう語りました。心優しくて強いリーダーを、ティモールの人々は心から信頼し尊敬しています。いまは貧しくても、この先どんな困難が待ち受けても、こういうリーダーがいる国は必ず発展すると感じました。一方で、国民の信頼と尊敬を得ていないリーダーの危うさ、国家の危機を、この国に来て痛いほど感じて悲しくなりました。わが国の北原大使は、そのグスマン首相とお互いに「兄弟」と呼び合うほどの信頼を得ており、素晴らしい活躍ぶりでした。
ピレス財務大臣とは、今年2月の訪日の際に会談しており今回2回目です。まるで旧知の友人に再会したようにお互いに喜びあいました。やはり何度もお会いし、信頼関係を育てていくことが重要だとあらためて感じました。彼女は、実直な人柄で何でも率直に語り、首相からも厚い信任を得ています。財務大臣として、借款政策、債務管理法案、石油基金法改正案をとりまとめ、15日から始まる国会に備えている多忙な時間を割いて私に会って下さいました。
全ての日程を滞りなく終了し空港へ。15時過ぎのフライトで東ティモールとお別れしました。2002年、21世紀になって初めての独立国、東ティモール。06年の騒乱を経て今まさに平和的に経済社会発展していこうと国を挙げて努力している国を、これまで日本政府はPKO派遣、ODAなど積極的に支援してきました。日本への信頼と期待は大きく、今後も、民主主義や人権といった価値観を共有する仲間として力を合わせていきたいと思います。
:2012年の大統領選挙、国政選挙を支援するE/N署名式に出席。
日本企業による浄水場建設現場を視察。
安全な水が入手できないため慢性的な下痢や発育不良に苦しむ人々が圧倒的に多いのです。
NGO「バ・フトウル」の活動を視察
太鼓をたたいて、流ちょうな日本語で歌ってくれました。
以前JICAの職員が教えてくれた「大きな栗の木の下で」が今でも歌い継がれています。
日本語教室もありました。みんな熱心に学んでいました。
人として、政治家として、魅力にあふれ包容力を感じさせるグスマン首相。

2011年8月12日(金)
今朝5時半、シンガポール経由で東ティモールから帰国しました。菅首相の辞任発言を受け政局が動き出し、次の代表が誰になるのか、代表選挙の日程はいつなのか、永田町は急に慌しくなっています。
宿舎でシャワーを浴び、洗濯機をまわし、スーツケースを片付けてお昼に外務省へ。副大臣とともにブリーフを受けたり、来月のAPECについての打合せ、政務三役会議、日パプアニューギニア議員連盟会長の樽床代議士、自民党の村田代議士から陳情を受ける等、慌ただしく過ごしました。
たった今、東ティモールから訪日されているインフラ大臣のライ氏が表敬に来られました。お互いの信頼関係を大切に、今後も両国の関係を発展させていきたいと思います。
外務省でブリーフ。
訪日中の東ティモール、ライ・インフラ大臣が表敬に。

ミクロネシア連邦のエマニュエル・マニー・モリ大統領の就任式に出席
朝9時に宿舎を出発。11時過ぎのコンチネンタル航空でグァムに向かいました。
約3時間半で到着。グァムには初めて来ましたが、日本人観光客が全体の8割を占め日系人も多いので、街中で日本語の看板が目につきます。
木村総領事とNPO法人南太平洋戦没者慰霊協会理事の青木さんのご案内のもと、まずは南太平洋戦没者慰霊公苑に向かいました。
ここは1944年8月11日、日本軍司令部が全滅した地で、最後の司令官となった小畑中将らが自決した防空壕があります。竹林のなかにひっそりと静まる防空壕の前に立つと、何とも言えぬ恐怖心と悲しみがこみ上げてきました。目の前に広がる青空とマリンブルーの海を、67年前この地で激烈な戦闘に身を置いていた兵隊さんはどんな思いで見つめていたのでしょうか。
日本、米国、グァムの3つの国旗が掲げられる慰霊塔の前で合掌し、あらためて不戦と平和を誓いました。
夜はグァムで活躍する日本人会のみなさんと懇談させて頂きました。グァムの日系企業は115社、ホテルや旅行代理店、バス運行、結婚式場などの観光・サービス業が多くを占めています。東日本大震災発生後は、カルボ知事をはじめ官民あげて募金活動が行われたそうで、ここグァムでも日本に対する友情と連帯が示されたことに感謝の気持ちでいっぱいです。
成田空港を出発
美しく広がる青空とマリンブルーの海
現地に残された日の丸
日本兵が自決した防空壕が3つありました
日本政府を代表して献花させて頂きました
日本・米国・グアムの国旗が掲げられる平和の塔
グアムで活躍する邦人の皆さん(於 総領事公邸)
2011年7月27日(水)
午前10時、グァム空港からミクロネシアのポンペイへ。約3時間半のフライトで到着しました。日本との時差はちょうど2時間です。熱帯性の気候で、雨も多くジメジメして、密林、ジャングルの島という感じです。人々は純朴で、空港では歓迎の花輪を頭に載せてもらいました。
ミクロネシアは人口11万人。ヤップ州、チューク州、コスラエ州、ポンペイ州からなる連邦制の国です。第一次世界大戦勃発後、日本はドイツ領ミクロネシアを管理下にし、第二次大戦終戦まで日本の統治が続きました。沖縄などから多くの日本人が移民し、正確な数字は把握できていませんが今でもかなり多くの日系人がいます。「でんちゅうばしら」「うんどうかい」「もったいない」など数多くの日本語が今でも人々の生活に根付いています。
ホテルでチェックインした後、16時半にモリ大統領を表敬訪問。日本政府特使として、大統領再任に祝意を表しました。唯一の日系大統領であるモリ大統領と協力して、歴史的に深い繋がりがある両国関係をさらに強化していきたい旨お伝えしました。来年5月に沖縄で開催する「太平洋・島サミット」への出席とご協力も合わせてお願いしました。大統領からは、東日本大震災へのお見舞いが述べられ、これまでの日本政府からの経済協力や様々な支援に対し感謝の表明がありました。
17時からはロバート外務大臣と会談。国連安保理改革、気候変動等に関する国際場裡での協力について意見交換を行いました。
19時からはJICAを含む在ミクロネシア邦人との夕食会。非常に厳しい環境のなかで、ミクロネシアの人々の生活向上のため奮闘されておられる話をお伺いしました。
ミクロネシア連邦に到着。早速、歓迎を受けました。
モリ大統領を表敬訪問。
ロバート外務大臣と会談。
街のあちこちでバスケットボールや野球を楽しむ若者を見かけました。
2011年7月28日(木)
朝9時過ぎにホテルを出て日本大使館へ。海辺に立つ日本大使館は初めて見ました。3月11日の地震発生後、ここにも津波が来るのではないかと鈴木大使はじめ館員の皆さんはとても心配したそうです。
9時45分からポンペイ国際空港を視察。日本の援助で滑走路の延長、旅客ターミナルビルの増築が進められており8月の完成を目指しています。毎日必ずと言ってよいほどゲリラ的に雨が降るため工事を進めるのはとても大変だったそうです。
10時半からポンペイ港湾管理事務所訪問、離島漁村連絡船視察、イティマイ運輸・通信・インフラ大臣を表敬訪問。ミクロネシアは607の離島からなる連邦制の国ですので、海運は人々の交流、生活物資等の輸送にとってまさに命綱です。
11時半から「日・ミクロネシア友好協会」の皆さんと昼食会。日本との歴史的なつながりを知っている世代がだんだん減っていくなかで、今後いかにしたら日本との絆を強めていけるのか意見交換しました。
15時からポンペイの市内視察へ。ミクロネシアで亡くなられた日本人の慰霊像、農業試験所、旧日本軍が使用していた戦車、ドイツ領時代の鐘楼を視察。
16時からマーシャルのシルク外務大臣と会談。二国間関係の強化、国連改革、気候変動、IWC等、多岐にわたる課題について意見交換しました。
18時から聖母教会で大統領就任の儀式が行われました。モリ大統領出身のチューク州の合唱隊が歌をうたい、牧師による感謝の祈り、聖書の朗読、神父による説教、賛美歌など厳粛かつ心温まる行事となりました。
ポンペイ国際空港。海を埋め立てて、延長176m、幅員45mの拡張工事が進められています。
炎天下での視察は過酷でした。やしの実で水分補給。
ミクロネシアの日系人と昼食会。「日・ミクロネシア友好協会」の
ロジャー・モリ会長は連邦議会の議員として活躍しています。
暑さをものともせず子どもたちは元気いっぱい外で遊んでいました。
なんと!新潟県魚沼市出身の女性と会いました。ミクロネシアでは生活習慣病で国民の70%が
亡くなっており、食生活の改善や健康管理について現地の人々を指導しているそうです。
67年前の旧日本軍の戦車が街に置いてありました。
可愛い!子豚たち。もちろん食用にされちゃいます。
マーシャル国のシルク外相と会談。
教会での大統領就任礼拝。
2011年7月29日(金)
10時からモリ大統領就任式に日本政府を代表して出席しました。会場となった「ミクロネシア中国友好体育館」は中国が無償で建設したものです。
就任式には、パラオやマーシャルの大統領、中国からは衛生部副部長(副大臣)、米国からは内務省島嶼予算・無償管理部長、グァム州知事らが出席しました。
モリ大統領は、外国からの賓客として日本政府特使である私を、演説の冒頭で紹介して下さいました。日本とミクロネシアの歴史的な絆を感じ大変光栄に思いました。子ども達の合唱も素晴らしくとても感動的な式典となりました。
式典終了後はホテルに戻り簡単な昼食をとり、14時半からマーシャル諸島共和国のゼドケア大統領と会談しました。福島第一原発事故に関し、大変ご心配をおかけしていることをお詫びし、現状と今後の取り組みについて説明しました。捕鯨問題についても、引き続き協力していくことを確認しました。
18時半から大統領就任祝いの夕食会へ。ホテルの一室で開かれ、お庭でスピーチや歌が披露されアットホームな雰囲気でした。在京スウェーデン大使や在ミクロネシア中国大使、パラオのトリビオン大統領とも会話が弾み大変有意義なひと時となりました。
大統領就任式の会場となった体育館へ入場。
国歌斉唱、国旗入場など儀式が続きます。
大統領就任式のお祝いの歌を披露した子どもたち。
午後からはマーシャルのゼドケア大統領と会談。
お祝いの夕食会はオープンガーデンで。モリ大統領の隣に座りました。
各国の代表者が大勢集まり、話が弾みました。
2011年7月30日(土)
朝8時、パラオのトリビオン大統領との朝食会。トリビオン大統領は、法律家であり、また野球選手として活躍したこともある素敵な方でした。「ケイコ」という日本名をもっていたお母様を亡くされたばかりで、深い悲しみのなかにある大統領に心からお悔やみを伝えました。二国間関係の強化、大陸棚、戦没者慰霊事業、気候変動など様々な課題について意見交換できました。
9時から引き続きヤノ外務大臣と会談。昨年、東京で開催した「太平洋・島サミット中間閣僚会議」の際にもバイ会談させて頂いているので、お互いに親しみを感じています。主に国連改革について意見交換させて頂きました。
全ての日程を終え、13時半、ポンペイ発の飛行機に乗りました。マリンブルーに浮かぶ緑豊かな小さな島。空から見るミクロネシアは、とても美しく可愛らしい島でした。あともう少し水位が上がれば沈没してしまうのではないかという危うさを感じます。
ミクロネシアだけでなく大洋州に浮かぶ島嶼国にとって、気候変動の影響は死活的な問題なのだということを改めて実感しました。この美しい島国と純朴で心優しき人々の暮らしが未来永劫続きますように…。
トリビオン大統領と会談。
ヤノ外相は医師でもあります。


南スーダン共和国の独立式典に出席
予定より2時間早くカタールのドーハに到着しました。午前3時。在カタール日本大使館の門司(もんじ)大使のご案内で暗い夜道を走り大使公邸へ。少し仮眠をとらせて頂いたあと町を散策しました。
カタールはペルシャ湾の南岸にある人口170万人の国です。うちカタール人は8分の1程。あとは外国からの移民や出稼ぎ労働者などです。門司大使によれば、2004年には人口80万人だったそうですが、資源開発が成功し豊かになると同時に人口がどんどん増え、国際社会からも大きく注目される存在感を示すようになりました。
日本の秋田県より少し小さい国土ですが、ハマド首長はダイナミックな国づくりに力を発揮し、石油・天然ガスの開発、行政の合理化、欧米の有名大学誘致、医療と保健、教育費の無料化、国際会議やスポーツ大会の誘致を実現しました。現在、「ザ・パール」という人口島の都市が建設中で高級住宅街、五つ星ホテル、外資系企業、レストラン、高級ショップなどが立ち並んでいました。世界中からセレブが集まってくるそうです。資源があるだけでここまで豊かに、お金持ちの国になれるとは羨ましくなりますね。
国際社会への貢献も大きく、レバノン諸派間の対話仲介やダルフール問題の仲介努力など国際問題の平和的解決に向けて積極的な外交を展開し、アラブのニューリーダーとして注目されています。アル・ジャジーラ衛星放送は、ハマド首長による資金提供で創設され、アラブ世界の世論形成に大きな影響力を及ぼしています。
天然ガスの開発時に日本の中部電力が先行投資したことを今でも恩義に感じている親日国で、今回の東日本大震災に際し1億ドルもの義援金を寄付してくれました。さらに天然ガスの優先供給も約束してくれるなど非常に友好的です。だからこそ我が国からカタール政府、国民に対するアプローチには少し物足りなさを感じているのではないかと思います。総理大臣の訪問は2007年の安倍総理以来途絶えたままです。
カタールのことをもっと良く知りたかったのですが、お別れの時間が来ました。14時過ぎ公邸から空港に向かい、16時発のカタール航空機でスーダンの首都ハルツームへと旅立ちました。門司大使、ご夫人、大使館のみなさん、大変お世話になりありがとうございました。
3時間半のフライトのあと19時半過ぎ、無事にハルツームに到着しました。夜だというのにムッとする暑さ。黄土色の大地。独特な匂い。遠くアフリカまで来たことを実感します。和田大使の出迎えを受け大使公邸へ。打ち合わせと夕食を済ませてホテルに戻ったのは23時頃でした。
ドーハ時間午前3時過ぎ、予定より2時間早く到着し、
次の乗り継ぎまでの間、日本大使館で休息させていただきました。
在カタール日本大使館で働く館員にご挨拶。
天然ガス、石油で一躍、経済大国となったカタール。日本では見たことがないユニークな
形のビルが建ち並んでいる一方で、イスラムの古 い街並みも残っていました。
私の隣は門司大使夫人。
2011年7月8日(金)
朝6時前にホテルをチェックアウトし空港へ。ハルツームまでは一般旅客機ではなく各国の代表者らと相乗りでUNMIS(国連スーダン派遣団)の専用機で向かいました。
2時間後、南スーダンの首都ジュバに到着。北スーダンに比べると一目で開発の遅れが判ります。道路は未舗装、建物も簡素。所々、中国語の食堂やショップが目につきます。沿道には新国家の国旗がはためき、多数の兵士や警察官が配置されていました。こんなにも大勢の兵士や警察官を公務員として雇っていかなければならないこともこの国の財政を苦しめているはずです。
それにしても道行く人々の背が高いこと!スーダン南部のディンカ族は世界で最も背が高い民族と言われ身長2m以上が普通にいます。同行した我が外務省の横山アフリカ一課長補佐もかなり背が高く「彼は日本のディンカだ」と言ったら現地人にウケました。
午後3時からデン・アロル地域協力大臣と会談する予定で待ち合わせ場所に行ったのですが、数時間待っても現れず。和田大使や大使館員が必死に相手側とコンタクトをとるのですが、携帯が切られていたり、交渉相手によって話しがバラバラでパニックに陥りました。どうやら明日の独立式典の準備や各国からの来賓3500人の接遇で手一杯で、ロジがめちゃくちゃになっているようです。何としてもデン・アロル大臣をつかまえて(失礼!)我が国政府として国家承認した外交書簡をお渡し、同時に外交関係開設の手続きをとらなければなりません。あきらめきれず大臣のお出ましを信じひたすらアポをとり続けました。
19時、南スーダンで活躍する国際機関・NGO・JICA職員のみなさんと食事会兼意見交換会へ。こういう国で仕事をする苦労がどれほどのものか、滞在1日ですっかり身に染みていましたので、邦人職員の皆さんには頭が下がりました。そうこうしていると、急遽、大統領主催の夕食会に来てほしいと連絡が入り慌てて大統領迎賓館へ。
ここでようやくデン・アロル大臣と会うことができ会談が実現しました。待つこと6時間!
2mの身長をかがんで待たせたことを詫びる大臣はなんとも言えず可愛らしかったです。22時、トレードマークのカーボーイハットをかぶった大統領がようやく現れ、夕食会が始まりました。ホテルに戻ったのが23時半過ぎ。
ホテル前の沿道には大人も子供も大勢の人々が集まり、新スーダン誕生を喜び合う歌や踊りや歓声で盛り上がっていました。長い紛争を終え、多くの犠牲を払ってようやく手にした平和と独立。希望の歓声は明け方まで延々と続きました。
朝食。早朝5:50ホテル出発のため簡単なランチボックス。
アイパッドで日本のニュースをチェック。
私たちが宿泊したホテル。ジュバにはホテルが整っておらず、
部屋にはシャンプーや歯ブラシもなく石けん1個のみ。
スーダンで活躍している国際機関・NGO・JICA職員の皆さんと面談。
デン・アロル地域協力大臣と会談。
バンギブン国連事務総長
サルヴァ・キール大統領は、常にカウボーイハットをかぶっています。
米国のブッシュ前大統領からプレゼントされ、お気に入りなのだそうです。
2011年7月9日(土)
いよいよ独立式典当日を迎えました。式典は午前11時開始ですが、混乱が予想されるため9時半にはホテルを出て会場に向かいました。
正装して会場へと向かう人の波をかきわけながらやっとの思いで来賓席エリアに辿り着いたのですが、なんと私たち日本代表の席が確保されていません。私たちの席だけでなく、他の国の席も割り振りされていないため大混乱。とうとう各国の来賓間で席を取り合う小競り合いが始まってしまいました。まぁ新しく出来たばかりの国ですからご愛嬌かな。
それにしても何十万人がこの会場に集まっているのでしょうか。20万人?30万人?想像できません。米国からはコリー・パウエルやスーザン・ライス国連大使、英国のヘイグ外相の姿も見えます。エチオピア、ケニア、南アフリカなど近隣国の大統領もお祝いに駆け付けています。
12時過ぎ、(北)スーダンのバシール大統領が登場。20年以上、北部と南部で激しい内戦が繰り広げられ、敵対してきた北のリーダーに対しても観衆から大きな拍手が沸きました。続いてサルヴァ・キール初代南スーダン大統領が登場。「大統領として真に忠誠を尽くす。法に従い、市民を守り結束を進める」と国家建設への決意を表明すると歓声はピークに達しました。アフリカ大陸54番目の主権国家「南スーダン」が誕生した瞬間です。
数万人が参加した軍事パレードには負傷兵の姿も見えました。国家主権を勝ち取るまでいかに多くの犠牲が払われたか改めて思い至ります。日本政府としても「平和の定着」の重点国としてスーダンを物心両面で支援してきていて、2005年以降、5億5100万ドルを投入してきました。南北境界線や双方が領有権を争う油田の権益など複雑な問題がまだ山積していますので、引き続き国際社会と連携しつつ北と南双方のスーダンをバランスよく支援していきたいと考えます。
炎天下・気温40度前後の式典では兵隊や市民がバタバタ倒れタンカで運ばれたり、過酷を極めました。私もノドが乾きましたが、水分を摂るとトイレに行きたくなってしまうし、人ごみを掻き分けてトイレまで辿り着く自信もないし、ひたすら忍耐でした。式典会場を出て、夕方宿舎に戻った時は放心状態。大使館の皆さんも真っ赤に日焼けしてお気の毒でした。
18時45分、WFPの飛行機でジュバとお別れ。南スーダンの発展と平和を祈りつつ再びハルツームへと旅立ちました。
独立式典会場に向かう人々。
汗だくになりようやく座席をゲット。隣は在スーダン日本大使の和田さんです。
数十万人集まった会場。国民は新しい国の誕生に興奮し歓喜の声を上げていました。
延々と続く軍事パレード。暑さで倒れてしまう兵士もいました。
命がけの警護!私の車を先導し、全ての行動を安全に警護して下さった百海(ももみ)さん。
警視庁からスーダン大使館に赴任されています。
再びハルツームへ。WFPのチャーター機で戻りました。

2011年7月10日(日)
久しぶりに朝ゆっくり起きて9時半からホテルのロビーで和田大使らと打ち合わせ。
11時、スーダン政府の国際協力省を訪ねアルディゲィル国際協力大臣と会談しました。
この度のスーダン南北分離・独立によって、(北)スーダンは人口約800万人、面積としては北海道くらいの分を失うことになります。加えて、国内油田の7割を南側に渡すことになり石油収入の大幅減少という経済的ダメージを負います。両国の間には紛争の火種となる可能性が山積しており、和平への努力を促すとともに、日本政府としては南北双方へバランスのとれた支援を行う用意があるとお伝えしました。
午後はケルティ外務大臣を表敬訪問。北スーダンでは閣僚級と会談する機会を得ることは難しいのですが、大臣とは予定を超えて1時間大変有意義な意見交換ができました。
新しく誕生した南スーダンにとって、北スーダンはいわば兄のような存在。共に発展を目指し、地域の安定勢力として建設的な役割りを果たしてほしいと思います。
夕方、ホテルに戻りシャワーを浴びて空港へ向かいました。気力・体力限界ギリギリの強行軍だったこともあり、私の興奮はなかなかおさまらずいろいろな思いが頭をめぐります。
「サウス・スーダン・Oh!Yeah!」飛び跳ねながら全身で喜びを表現していた南スーダンの人々の姿が目に焼きついて離れません。何世紀にもわたって虐げられ、内戦や紛争で傷つき、独立を迎えてもなお貧しい暮らしが一変するわけでもないこの大地で、それでも必死に生きようとしている人々に、一日も早く平和と幸せが訪れることを願わずにはいられませんでした。
ハルツームの街並み。この日は気温46度でした。

青ナイル川
ディゲイル国際協力大臣と1時間会談しました。
ケルティ外務大臣と会談。南北和平やダルフール問題についても意見交換しました。
ハルツームではトヨタの車がたくさん走っていて、販売店もあります。

さよならスーダン。ハルツーム空港での最後のショット。大使館の皆さん、大変お世話になりました。

ミャンマー訪問
午前11時成田発のフライトでミャンマーに向け、出発しました。
バンコク経由でヤンゴンに到着するのは午後7時の予定です。ミャンマーには約50社の邦人企業が進出していて、到着後、すぐに現地の邦人企業関係者と懇談です。日本からは自動車、機械類が輸出され、ミャンマーからは衣類、海産物、履き物などが輸入されています。ミャンマーには石油、ガス、レアアース、銅など豊富な天然資源がありますが、ここでもすでに中国の影響力が相当大きくなっています。
日本からの経済協力は2003年にアウン・サン・スーチー女史がミャンマー政府に拘束されて以降、真に人道的な案件などに限定されてきました。今後、ミャンマー新政府が民主化への努力をどのように進めるのか注目しながら、元々は親日国であるミャンマーとの関係、経済協力を決めることになります。 30日の朝帰国する予定です。
これからミャンマーに向け、出発します。
ミャンマーで活躍される企業関係者と大使公邸で意見交換しました。
黄金のパゴダ(仏塔)があちこちに見えます。
有名なビルマの竪琴がホテルのロビーに飾ってありました。
2011年6月28日(火)
朝6時、ミャンマー最大の都市ヤンゴン市内のホテルを出発して、国内線でネピドーに向かいました。ネピドーはもともと何もない土地でしたが、2005年に軍事政権が首都移転を決め、急ピッチで開発され、さまざまな行政機関もヤンゴンから移転しました。
10時から国会を訪問し、ナンダ・チョウ・スワ下院副議長と会談しました。それにしても大きくて立派な国会でびっくりしました。
11時15分からテイン・テー国境大臣と面談し、日本からWFPを経由しての食糧援助引渡し式典に出席。現地では痩せている人が多く目につきましたが、人口の1割・約500万人が食糧不足に陥っているとのことです。
13時からワナ・マウン・ルイン外務大臣と会談しました。新しい国づくりに向けての自信と熱意が伝わってきました。
14時から最大与党である連邦連帯開発党のテー・ウー総書記と会談。日本で言えば与党の幹事長にあたる実力者です。
16時半からティン・ナイン・テイン国家計画・経済開発大臣と会談。日本政府は、真に国民生活に直結する保健や人材育成、農業などの分野で支援することを伝えました。
19時から21時まで、マウン・ミン外務副大臣主催の夕食会に出席。
今回、日本の政務レベルでは3年ぶりの訪問であり、合わせて6つの会談を行いました。最後はフラフラになりましたが、非常に内容が濃い率直な意見交換ができたと思います。
昨年11月の総選挙、今年3月の民政移管、アウン・サン・スー・チー女史の釈放、政治犯釈放は不十分ながらも、民主化と国民和解に向けた一歩前進であり、今後も引き続き努力するよう要請しました。
新政権は外国との対話にも意欲的に取り組んでいることも判かりました。新しい国づくりに自信を深めているという印象です。
ミャンマーでは携帯電話が使用できず不自由でした。広大な農地を農民が水牛と手作業で作付けしていたり、道路もデコボコで20数年前に留学した中国の光景を思い出しました。
農業を機械化し、工業化、近代化、経済発展への道を模索しつつも自力ではなかなか開発が進まないジレンマや欧米の経済制裁のため各国の支援が停止していることに苦しんでいる印象も持ちました。
これがミャンマーの国会です。とにかく大きい!!
ナンダ・チョウ・スワ下院副議長と約1時間会談。
日本からミャンマー政府へ直接、援助することは停止していて、WFPを通じて、民衆に食糧を届けます。
ワナ・マウン・ルイン外務大臣と約1時間会談。
連邦連帯開発党本部も立派な建物でした。
16時半からティン・ナイン・テイン国家計画・経済開発大臣と会談。
2011年6月29日(水)
朝6時半にホテルを出発、再びヤンゴンに向かいました。有料の高速道路といっても、人や自転車、野良犬も歩くのどかな道路をひたすら走り11時半過ぎにヤンゴン市内へ到着しました。
13時、いよいよアウンサンスーチー女史と会談するため国民民主連盟(NLD)本部へ。古い建物の入口をふさぐ大勢のマスコミが、私の訪問の瞬間を写真に撮ろうと待機し、また屋内では若者を中心にスーチーさん支援者がたくさん集まって歓声を上げていました。私の緊張は一気に高まりました。
細く小柄な身体。スッと伸びた背筋。民族の衣装と花の髪飾り。一点をじっと見つめる眼差し。その一つひとつに、彼女が歩んできた闘いの日々が刻まれているかのよう。
民主化だけでなく、この地域全体の平和と安定のためになにが必要なのか、ミヤンマーには法の支配、報道の自由がない。彼女は切々と、時に激しく語りました。日本の政務レベルでは2002年川口順子外務大臣が会談して以来のことでしたが、ミヤンマーと日本の関係に新しいページを開く上で、民主化運動の指導者であるスーチー女史と直接意見交換できたことは非常に意義深かったと思います。
15時、会談を終えヤンゴン市内にある日本人墓地を訪れました。日本から遠く離れたこの土地で、先の大戦により多くの日本人兵士の尊き命が散ったのです。合掌。
15時45分からヤンゴン市長を表敬訪問。昨年末まで在日本ミヤンマー大使を務められたフラ・ミンさんが新しく市長に就任され活躍されていました。
17時から野党幹部、少数民族政党幹部らと会談。ミヤンマーには135もの少数民族があり紛争もあります。野党として、少数の代弁者として、健全な国会活動、政治活動を粘り強く続けることを期待します。
18時半、すべての日程を終えヤンゴン空港へ。19時半過ぎのフライトでバンコクへ。飛行機を乗り継ぎ成田空港まで約7時間の長旅となりました。
国民生活を向上させ国を豊かにしたいという熱い理想を掲げつつも、自国の力だけではいかんともしがたいミヤンマー政府。民主化の進展や国民和解などお構いなしに経済援助や投資をしてくれる中国。スーチー女史の民主化運動を支持し厳しい経済制裁を続ける欧米。各国の様々な思惑と戦略のなかで、もともとは深い絆と友好関係でつながっていた日本はどう立ち位置を定めるか。今回の訪問をきっかけとしてぜひ新しいページを開いていきたいと思います。
通勤・通学はトラックにあいのりです
男性でも布をスカートのように巻いてはいています
現地のマスコミが大勢待機していました
黄色のバラは偶然だったのかしら?
お土産にはスーチーさんがかつて京都に留学した頃の思い出一品と聞いて
「マロングラッセ」を持っていきました。
心をこめて追悼の辞を述べさせて頂きました
ヤンゴン日本人会の方々が墓地をきれいに管理されていました
ヤンゴン市郊外の雑貨屋さん
美しいパゴダ(仏塔)
ヤンゴン市 フラ・ミン市長と会談
ミヤンマーでは僧侶になることが男子一生の誉れとされています
野党、少数政党代表者と意見交換

中国出張ー北京で開催された「日中グリーンエキスポ」の開会式に出席
朝8時半、北京市内のホテルを出て「日中グリーンエキスポ2011」の会場に向かいました。日本側は、経団連の米倉会長が団長を務められ、大変多くの企業が参加されました。日中両国の優れた環境技術、サービス、製品が結集し展示を通して相互交流が盛んに行われました。今後、環境・省エネ分野で両国の協力関係が進むことを期待します。13時過ぎ、中国のCCTVのインタビューを受けました。
14時過ぎ、外交部の胡正躍部長助理と会談し、先般の日中首脳会談で示された両国の協力関係や東シナ海資源開発、来週行われる行事、社会保障協定など様々な課題について意見交換しました。15時半過ぎには空港に向かい、17時の飛行機で帰国の途につきました。
「日中グリーンエキスポ2011」の開会式に参加し、ご挨拶しました。
会場には日中両国の技術やサービスを紹介する展示であふれています。
中国のCCTVのインタビューを受けました。
外交部の胡正躍部長助理と会談。
北京の街並みです。大きな発展を遂げています。

